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アダム・カヘンの新著とセミナーからの学び
アダム・カヘンは、新著『敵とのコラボレーション』が発刊される機に来日し、出版記念セミナーを行いました。「同質ではない他者たちといかに協働するか」という課題にどのようにこれまで開発されてきた対話の手法や考え方を活用できるかが新刊とセミナーのテーマです。
このテーマは、社会や世界の情勢をみるに、政治家、経営者、マネジャーをはじめあらゆる人にとって、今後ますます差し迫った課題となっていくことでしょう。
アダム・カヘンは世界のさまざまな社会問題の解決に向けて、多様な利害関係者を集め、対話ファシリテーターとして数多くの功績を残してきました。そのアダムが自分自身の実践を振り返りながら内省し、悟ったことを新刊に記しています。今回、著者アダム・カヘン自身を日本に迎え、あらためて日本の文脈においてどのような意義があるかの思索を深める機会となりました。
いつのまにか他者を「敵化」していないか
本のタイトルこそ「敵」と示しているものの、著者の一般的な意図はもっぱら同質ではない他者とのコラボレーション(協働)について書かれた本です。アダム自身の、日常での事例と協働での事例をひもときながら、いかに私たちがいつの間にか意見の合わない他者を敵化してしまう傾向が多くあることを紹介しています。
日本でも意見の対立が起きたとき、自分の意見に賛同してもらえないとき、いつの間にか相手を「味方してくれない」「反対されている」と感じ、そこから転じてかえって「敵(てき)」や「敵(かたき)」のように感じてしまうことは、日常でもありそうです。
さらに、今の社会や政治では、洋の東西を問わず、二極化、鬼畜扱い、敵化をすることが流行となって、そうするリーダーたちをもてはやす風潮すらあるかもしれません。
敵化の先にあるのは、話し合うことを避けたり、拒否したり、あるいは、話し合っても平行線であったり、袋小路に入ったり、またその経験からますます敵化をして話し合おうとしない悪循環に入ることも少なくないでしょう。
さらに、やっかいなのは「見せかけのコラボレーション」です。日本人は「和を尊ぶ」「調和を重視する」と言いますが、お互いの対立軸を隠したまま、互いに触れずにおいて、表面的な関係は取り繕いながら、実質的な協働は起こらないケースも多いかもしれません。
思い込みによる「敵」、あるいは必要以上にエスカレートした敵視を手放し、中立的に差異や対立に向き合える力が協働の必要条件となるでしょう。
協働は必ずしも最善の選択肢ではない
ところで他者との対立があるとき、協働は必要なことでしょうか? 実際協働を必要と考えるかは、それぞれの立場と状況によります。例えば、それぞれが単独で目的を達成しているなら、協働はまったく必要ありません。
目的を達するためのリソースやアクセス、機会を単独では有していない場合、あるいは他者が目的実現の障壁になっている場合など他者にも動いてもらう必要がある場合に協働の必要性が検討されることになります。対話や他者との関わりを重要視する人は、協働をデフォルトに考えがちですが、多くの人にとって協働はなおも最善の選択肢ではないことをアダム・カヘンは説きます。協働以外にとりうる選択しとして、「強制/義務化」「適応」「離脱/逃避」であると明示します。
もし、相手と協力しなくとも、一方的に自分の意図を「強制」して相手を変えられると思う状況では、協働は選ばないでしょう。強者がよくとる戦略です。例えば、日本のような文化では他国の独裁者やトップリーダーに見られるような、あからさまに力で強制を他者に迫るケースは少ないかもしれません。しかし、それが法制を通じてであれ、論理的であれ、「義務化」という形で他者に行動を迫ることは多いでしょう。
一方で、自分は相手を変えられない状況においては、しばしばその状況を我慢(適応)するか、あるいは離脱します。また、日本の社会では流動性の高い文化に比べ、相対的には「逃避」と捉える方がしっくりくるでしょう強者とみなす相手とは協働したくないものです。まして、敵化をした相手となればなおさらのことでしょう。
異なる他者との協働は、たいていは他の選択肢がいずれも機能せず、十分多くの人たちが行き詰まったと感じる状態で起こることが多いというわけです。
もし、客観的に行き詰まるのある状態なら、それぞれに対して、現状とっている選択の便益、コストとリスクを明確に考えられるようにするのが近道でしょう。(但し、強者の強制と弱者の適応・離脱が、人権の観点から許容できない抑圧であるならば、第三者介入を必要とするケースもあるでしょう。)
裏切り者のそしり
さらに協働へのハードルはなおも残ります。「協力者(コラボレ-ター)」という言葉には二種類の意味があります。一つは、目的を達成するために協力をする人という意味、もう一つは敵に対して協力する裏切り者という意味です。
それが正当であれ、幻想であれ、ある集団の中で敵化された人たちと協力することは、裏切り者のそしりを受けることとなる可能性があります。また、裏切り者に対する仲間内の仕打ちは残虐極まりないものであることが、歴史上のさまざまな事例に現れています。
日本国内でも、例えば、環境問題の解決のために企業に協力するNPOは他のNPOから非難され、あるいは、NPOと協力して取り組む企業もまた非難されたことがありました。同質の他者に先駆けて行動すると、「いい格好しい」となり、あるいは些細な違いも許容されず足の引っ張り合いになることも少なくありません。
他国においても日本においても、協働することの内在的なリスクはしばしば大きく、微妙なバランスの中での舵取りが必要になります。協働が必要な場合ですら、機が熟すのを待たない限りは、協働はままならないものとなります。
大局の中で、いつ協働するか、のタイミングをしっかり見据えることをアダムは提唱します。また、すべてが変化するのを待つのではなく、それぞれの集団の中で現状に不満足で変える必要があるとすでに感じている者を見つけて、協働の足がかりを築いていくことを勧めています。
(小田理一郎)
アダム・カヘン氏の新著『敵とのコラボレーションーー賛同できない人、好きではない人、信頼できない人と協働する方法ーー』好評発売中です。
アダム・カヘン氏は、南アフリカでの白人政権や黒人政権へのスムースな移行、さまざまな派閥間で暴力的抗争や政治腐敗の続いたコロンビアの近年の復活、互いに敵対しがちなセクター横断でのサプライチェーン規模の取り組みなど、対立や葛藤状態にある複雑な課題を、対話ファシリテーションという平和的なアプローチで取り組み、成果を残してきました。
世界50カ国以上で企業の役員、政治家、軍人、ゲリラ、市民リーダー、コミュニティ活動家、国連職員など多岐に渡る人々と対話をかさねてきた、世界的ファシリテーターが直面した従来型の対話の限界。彼が試行錯誤のすえに編み出した新しいコラボレーションとは?
職場から、社会変革、家庭まで、意見の合わない人と協働して成し遂げなくてはならないことのある、すべての人へ。相手と「合意」はできなくても、異なる正義を抱えたままでも、共に前に進む方法を記した新著です。